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Thursday, 21 July 2011

人には「何か」なんかないのかもしれない。

そんな自分への憤り。

または、人が消滅していく恐怖。

草間は水玉を描く。

恐れ多いのかもしれないけれど

草間の水玉の意味が少しわかった気がする。

そして私の中にある「圧倒的な怒りと憤り」と

何か共通する感覚さえある。

無いことのへの恐怖

つい先日草間彌生の番組を観た(録画しておいたものを観たのだが、肝心の最後がメモリの問題で欠けていた。・・・が、今の私にはそれで良かったのだろう、と思っている)。

そのあと、たまたま職場で取り組んでいたことを契機に、コラージュ作品(というよりは療法的)を2つ作った。

それから少し悶々として

持っていた草間の画集をじっくりと眺めた。

そんな作業をしているうちに、自分の中の「悶々」が少しわかった気がする。

私の中にあるのは「何もないことへの恐怖」ではないか。

私のコラージュ作品は、ものすごく強迫的である。

”専門家”が見れば「過度に強迫的な人格」とでも評するに違いない。

草間の作品も作品を作っていく過程も強迫的である。

だが、草間の「強迫」と私の「強迫」は何かが決定的に異なる・・・

そこがずっと気になっていた。

ここからは私の勝手な考え。

草間の「強迫」は自分の中に自分の手に負えないほど”何か”があって、それらを出しきるために、ほとばしるように湧き出てくる何かを出す矛先として、作品を描き、描き続けるのではないだろうか…。

一方、私の場合。

「何もない」ことが怖く、何もない空間を許すことができず、それを埋めるために、強迫的に埋める。だがいつまで経っても納得できず、それを打ち消す、もしくは作り直すかのように、その上に、重ね、重ね・・・自分の着地点を探す。

私には、本当に何もないのかもしれない。自分の生い立ちを考えれば、それは正しい理屈のような気がする。

でも、ひょっとしたら、意外にも意外にも何かがあるのかもしれない。

「描きたい衝動があるのにもかかわらず、描けない」ことをある年齢(中学生?高校生?)から長年続けてきた私。それはそれで非常に苦しかった(今の「悶々」もそれ)

私に「何か」はあるのだろうか。

それとも、一方で私が惹かれる「無の境地」、ようは何もない状態を、自分とし受け入れ、生きていくことが、私なのか。

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