Saturday, 07 May 2011

浄化の雨

決断、決定したわけではないけれど、

いつでも”その日”を迎えても良いように、

職場の片づけを始めた。

一種のハラスメントに悩まされていたちょうど一年前から

片づけをしよう…と思っていたけれど、

一年前からついこの間までは、

どうしても、どうしても

気持ちの上で追いつかず、

片付けは進まなかった。

昨年は、過去に「頑張った」証を目にすると

涙が出て、作業が進まなくなっていたけれど

この春は、もうそういう涙は出なくなった。

「あきらめて」とか「絶望して」とかではまったくなく

たぶんとてもいい意味で、その手の涙は出なくなった。

(夜、子どもを寝かしつけながら、”それとは違う”涙はとめどなく出たけれど)

ずっと手をつけられなかった、専門分野の本にも

手をつけられるようになった。

手をつけられるようになったら、面白いほどに

大抵の本は手放せることに気づく。

20年近く付き合ってきた専門分野。

手放すとは言え、それなりに愛着のある本たち。

(この本たちに私は本当に助けられてきたから)

ただ捨てるのではなく、有効利用してもらえたら嬉しいと

心から思うが、どこで使ってもらえるだろうか・・・?

今日は雨模様。

昨日の今日だからちょっぴりしんみりしてしまうけれど、

私にとっては浄化の雨。

とても心地いい。

Thursday, 17 December 2009

大切な言葉

「思い起こせば、何かを具体的にしてくれたかというと、何もしたわけではないのに、いつも(周囲に話すことのなかったことを)どんどん話したくなるし、会うと必ず気持ちが軽くなった」

<何もしなかった。ただしていることはただ在ることだけ>

「それが良いのかもしれない」

「あのとき会わなかったら、自分は生きていなかった」

「あのときに生きるための力をもらった」

「会うたびに生きるための力を与えてくれる」

・・・これらの言葉を聞いてあらためて確信した。「私が生かされている」のだと。

この4月から、あれこれと考えさせられることが実に多かった。「自分の考え方や在りたい在り方、目指す方向があまりにもずれているのだろうか・・・」。ある集団の中でたった一人になってしまう私には、確かめたくても基準や拠り所となりそうなものもないまま今に至る。

冒頭の言葉は、ずっと確かめたかった「何か」を私に与えてくれたような気がする。

大事にしていきたい。心からありがとう。

Wednesday, 09 December 2009

覚書

臨床を進んでやらないことへの後ろめたさをずっと私は背負っていたのだと思う。

このことも、とある出来事を契機に「(人がどう思い、どう評価しようとも)あぁ、私は後ろめたさを背負っている必要はないのだ」と心から思うことができるようになった。

私はたぶん、ものすごく臨床が好きなのである。それは”とある契機”となったとある人とのやり取りを通して(”素敵”なやり取りではない・・・)気づかされただけでなく、これまでずっと”とある人たち”に対して感じ続けていた違和感から気づかされたことも合わせ、自分の中で強く確信できたのである。

繰り返しになるが、たぶんものすごく好きなのである。

ひとたび引き受ければ、自分自身をも自分のプライベート(子供、家族)をも犠牲にしてまで、熱くなり、熱心にのめりこむことが自分でわかっている。だからこそ、いつまでになるかはわからないけれども、自分の中で厳しくセーブしているのだと。

神田橋先生がある著書で「子育てで長くブランクがあった人が臨床を再開した時、それまでブランクなく実践や研修をやってきた人たちよりも、抜群のセンスを身につけている」ということをおっしゃっている。この言葉を子供が生まれる前から自分の中で大事にお守りにしている。

周囲がどう思おうと、自分がそういう人間になってしまうわけではない。所詮、その人たちは私が大切にしている信念など知らないのだし、私からもわざわざ知らせることでもないと思っている。(伝わる人には、わざわざ説明などしなくても伝わるものだろうし、反対に伝わらない人には、どんなに言葉や努力をつくして伝えようとしても、それもまた難しいものなのではないだろうか)

誰でもない、自分が大切にしていればよい。

・・・以上覚書。

Tuesday, 18 August 2009

距離のとりかた

本当に順不同で思いだした順にメモです(笑)。

日本倫理思想史を専門にしている友人と、かなりまとまった時間語り合った。

直接の理由は、彼女と共同研究をしよう、という話なのだが、実にさまざまなことを語り合った。

二人で語り合っているうちに、彼女がなぜ「倫理を選んだか」という話に及んだ。

思えば彼女と知り合って、しばらく経つのに、彼女からこの話を聞いたのは初めてだと思う。

私の中には、つい最近もふたたび浮上してきている「なぜ自分は生まれてきたか」「自分は何のために生まれてきたか」という問いがあるのだが、彼女の中には「自分はなぜ人(ヒト)に生まれてきたか」という問いが、気づいた時にはもうあったのだと言う。

そんな彼女が持つ視点は広く、深く、彼女との対話の中で、いつも私は大きくさせてもらって帰ってくる感じがする。

メモをしておきたいことはいくつもあるのだが、そのうちの一つ、興味深かったこと。

私はその他の同業と比較して、事例との距離のもちかたが異なるのだと言う。

他の同業の話を聴いていると、最後まで自分が携わって、「こうしたら、こう良くなりました」という報告が多いように感じるのに対して、私は、「こうなったらいい・・・」と願いながら、事例を対象化し、距離をとっているのだと言う。

あるところから先は相手に任せ、私は祈っている・・・そういうスタンスをとっているのだそうだ。

彼女の口から「祈っている」という言葉が出た瞬間、私は涙が出そうになった。

どんな涙なのかはわからないけれど、自分の心の奥深いところに響いてくる、そして私という人間やその生い立ちまでをも、気づいている、知っている・・・そんな気持ちにすらなるひとことだったのかもしれない。

Saturday, 21 March 2009

興味深かったこと

Mokurens

久しぶりに専門のワークショップに参加した。

内容はかねてから興味を抱き続けてきたアートセラピー。

ワークショップの内容についてはここには載せないことにするが、体験中心のワークショップだったため、私もまた”体験すること”に徹した。

好きなことを取り組んでいるにもかかわらず、とにかく時間を必要とする私。

あらためて、私は極度ののんびり屋というか、決して冗談ではなく、周囲の人々と時間の流れが異なるのだなぁ・・・と自覚させられた。

「浮いているのではないか」という恐れをずっと、本当にずっと抱いてきたのだと思う。

しかし、今回の体験の中で、

「こんな自分でもO.K.」

「こんな自分でも受け入れられている」

「これでもいい」

「これでいい」

「”浮いている”なんていう心配はいらない」

という言葉が自然に浮かんできた。

また、「型にはまっている自分」「枠に当てはめている自分」にも強烈に気づかされた。

「誰も”枠に当てはまりなさい”なんて言っていないじゃないねぇ・・・」

「もっと好きにしていいんだよ~」

こんな言葉もやはり自然に出てきて、思わず自分で笑ってしまった。

なかなか興味深い体験だった。

Jinchoges

Friday, 09 May 2008

日記風メモ

時には日記風メモで。

このGWは、随分と充実した時間を過ごした。
その殆どは子供や家族に関することなのだが、
一つ、私自身のこれからに関する大きな収穫を得た。
叔父から大きなアイデアをもらったことで、
自分の専門に、一つ大きなものが加わったのである。

これまでやってきたものとは、全く毛色の異なる領域で、
まさに学部生になった新鮮さを味わっている。

善は急げと、その日の夜から、ネット検索を駆使し、
入門書やら何やらを6冊購入。
(古書も含め注文し、到着を待っているものがさらにある)
子供が眠るたびに、貪るように読んでいる。

新しい領域をゼロから取り組み始めたことで、
これまで、脳の同じ部分ばかりを使っていたんだな、という感覚に気づく。
(あくまでも、私の”感覚”であるが)
今まで使ってきたようで、全く使っていない部分があり、
柔らかいつもりでいて、実は凝り固まっていたんだな~。
頭の体操や、今まで使っていなかった感性のトレーニングにもなって、
非常に楽しい。

おそらくこの体験は、今まで携わってきた領域に関しても
新しい視点や新鮮な風をきっと吹き込んでくれると信じている。
(既にもう”発見”があった)

Tuesday, 08 April 2008

メモ

S

子育ては心理臨床のトレーニングになる

泣き声
声の調子
表情や目の光り
肌の色や張り、触った感触
などで
子どもの気持ちや体調が
わかるようになる

心理臨床家が、相手の気持ちや調子を
相手が全てを言葉にしなくても(またはできなくても)
推し量る練習になる

自分の都合、感情、気まぐれに、自分自身が振り回されることなく
とにかく子どもの要求に適切なタイミングで応え、
たとえ自分がどんなに疲れていたとしても、
常に気持ちが安定して、笑顔で、温かく接することのできる
そういう態度、在り方を身につけざるを得ない。

心理臨床家に必要とされる
安定した自分でいられるようになる、
まさにそのトレーニングになる。
心理臨床家は、クライエントと会っている時間に限定されるが
子育てをしている母親は、24時間、この姿勢を必要とするから
心理臨床家よりももっと、自分を律することを
求められている。

また、心理臨床家は、これらのトレーニングに”何年も”かける
ことができるが、
子育て中の母親は、そんな悠長なことは言っていられない。
非常に短期間で身につける必要があるのだ。

S_2

Wednesday, 02 April 2008

神田橋のコトバ

S

「女性の心理臨床家が、出産と子育てのためにしばらく実務やトレーニングから離れることがあります。数年ごに復帰したときに見ていると、彼女たちはほぼ例外なく、素晴らしいセンスを身につけて戻ってきています。中断なく実務やトレーニングを続けて励んでいた仲間よりも進歩していることさえ多いのです。なんとも不公平だと思うことです。しかしそれは当然なのです。若い母は育児の日々の中で、最高の実務とトレーニングを体験するからです」。神田橋條治『初心者の手引き』花クリニック pp.107

「子育てをしている人はね、それだけトレーニングのチャンスを失ったかと見えるけれど、じつはそうじゃなくて、復帰してみるとそのあいだ勉強していた人よりも先に行ってる。というのは、やはり命とか、変化とか、成長とかいうことについて、フォーカシング的な意味で何かが掴めているんだよね。何かがわかった、それは言語以前のものだから説明はできない。だけど、何かを見て、あれは違うということはよくわかるわけ」。神田橋條治・滝口俊子『不確かさの中を』pp.22

神田橋の言葉は、平易な表現で語られているから、一見、すぐにわかったような錯覚に陥る。だが、少しすると必ず、「一体どういうことを指すのだろうか・・・」とわからなくなる。その意味を本当に理解するには、ずいぶんと時間を要する。

神田橋本人もそれをねらって書き、語っている、とやはり何かの著書で言っていた覚えがある。私は、それが面白くて、神田橋の著書や語りが大好きである。脳や感覚、感性をトレーニングされているようだ。

上記の引用部分を大切に抱え始めたのは昨年の夏頃だったと思うが(この本そのものは、もう何年も前から繰り返し読んでいるもので、綺麗な装丁の本なのに、すっかりぼろぼろになってしまった)具体的にどういうことを指すのか、ようやく今頃になって、身体感覚で(神田橋の言う”フォーカシング的に”)わかってきたような気がする。数日前に、「こういうことか!」と気づいたことをノートに殴り書きをした。
これを清書したら、少しずつここに載せていきたいと思う。本当に少しずつだけれども

Friday, 27 July 2007

LD考

S


皆さんはLD(学習障害)というものをご存じでしょうか。

私自身は、臨床心理学系の大学院の受験勉強を始めたときにそういう状態像があることを知りましたが、どんなものなのかを理解したのは、大学院に入学してから、いえ、自分が実際に臨床の仕事に携わってからのような気がします。

LD(学習障害)とは、「基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を示すものである」(文部省 1999 の定義)とされているものです。

簡単に言い換えれば、私の解釈によれば、能力に極端な偏りが見られ、学習能力の特徴だけでなく、しばしば、独特な話し方、とんちんかんな受け取り方、突拍子もない発想、落ち着きのなさなどが見られることが多い状態のことを指します。

今日、職場で、1,2年生対象に業者の「基礎学力試験(国・数・英の3教科)」の試験監督をやる、という仕事がありました。

試験監督ほど忍耐を強いられる仕事はなく(本日は1学年分×2クールで行ったため、ほぼ3時間の間、じっとしなければいけなかった。しかも午前中は自分の定期試験の監督)、仕方がないので、問題用紙を眺めて頭の中で解答を行う、ということをして過ごしていました。

・・・で、ここで心から納得したのです。「あぁ、私のような者をLD」と言うのだ、と。

国語と英語の問題は、まぁまぁ出来たかと思います(自分比)。

問題は「数学」! 私がかろうじてできるのは単純な計算問題(紙に計算結果を残せる場合。
知能検査でよくあるような暗算が要求される場合は、2桁の足し算がもう怪しくなる)と、同位角や円周角や面積・体積の問題のみ。たとえば、□□×□=539 この□に入る数字を答えよ、とか、文章題から式を立てる問題などは、大問まるまるダメ(他にも問題があったけれど、ちっとも理解できなかったので記憶にすらない・・・)。

国語と英語の点数に対し、このテストの数学の私の得点は、国・英の4分の1も取れるかどうか・・・という結果になるかと思われます(推定採点による)。

思い起こせば、高校時代に、自信満々で答えた数学の試験で赤点とって、自分の能力に対して反対の方向に非常に驚いたことがありましたし、もっと昔で言えば、小学生のとき、分数の割り算で「どうしてひっくり返してかけ算するの?」と悩み抜いたこともありました。

大学院時代に、LDの第一人者が私の所属していた講座にいらしたのですが、その先生に、私、お墨付きをいただいているのですよね。何の?ってもちろんLDの。

そうは言っても、自分で自分のことを、まるで他人を診断するときのように、えらく納得しながら「これをLDというのだ」と思ったのは、今日が初めての体験でした(身体感覚で理解した感じ)。

アインシュタイン、エジソン、ガウディ、トム・クルーズ、黒柳徹子さん、最近で言えば市川拓司さんなどが、LDと言われていて、LDの特徴を持つ人間には、目標にしたい、あこがれの存在となっています。

ただ、今から困っているのは、この基礎学力試験について、秋学期始めの2年生対象のゼミにて、解説をしなければいけないのです。数学に関しては私は無理です! 「嫌だ」とか「やる気がない」とかではなく、「(どんなに努力をしても)出来ない」のです! 
教員にもLDがいることを、広く知ってもらえたらいいな〜というのが、ささやかな望みです。


S_3


Sunday, 03 September 2006

身体との対話

Sinjukuyuhi


新宿の夕日。
今思えば素敵な3日間になることを暗示していたのかもしれない。

先週3日間、国際学会に行ってきました。
通勤時間に都内へ通うのは久しぶりでした。

専門に関する学びを深める絶好の機会。

今回は、今の私自身の流れのために用意されたようなプログラムでした。

たくさんのワークショップが催されている中、私が今回選んだのは、東洋(中国、インド)の伝統的な身体技法と身体的アプローチ(日本)。

この3日間で、すばらしい人にも出会えました。

そのうちの一人とのこと。

身体を扱うワークショップだったので、二人組を組んでお互いの身体を使って練習するのですが、私の身体を触るなり、「うわー!どうしたの?」の第一声。

ばりばりだったそうです。
自分では昔に比べればずいぶんほぐれたつもりだったのに、てんでダメだそうで。。。

どうも私は自分の身体にとんでもなく鈍感なんだそうです。
そしてずっと自分の身体をかわいがってこなかった。

「オーラが死んでるよ」とも言われました。

それは本当。

私の身体を、ワークショップが終わった時間も使って、丁寧にゆっくりとほぐしてくれました。

温かかった・・・。

「そんなに怖がらなくていいよ」

何度も言われました。

「そんなに自分の中に入らなくていいよ。ぼーっと頭をからっぽにして」

この一言が私をとても楽にしてくれました。

ワークショップの先生の、

「自分の身体に任せる」

と言う言葉も、今回私の中にふっと飛び込んできました。

私は、こういう風に人に身体をほぐしてもらうとき、「人に任せよう」としていて、そしてそれはとても怖いことなので、逆に身体が固まってしまい、いくらほぐしてもほぐしている側から固くなっていってしまうことを繰り返していました。

それをどうやったらそうならずに済むのか・・・

私はずっと分からなかったのだけれど、ようやく分かったような気がします。
「相手に任せる」のではなく、「自分の身体に任せる」のだと。

そしたら、とても不思議な体験をしました。

いろいろ考えが巡ることがなくなり、頭がぼんやりしてきて、真っ白というよりは透明な感じになりました。
それはとても心地いい体験でした。

すると、少しだけ、世の中が怖くなくなりました。

もっと私は世の中で安心していていいんだ・・・
そう思えたら、ものすごく楽になって、自然に笑顔になりました。
こんなに楽な気持ちで外にいるのはひょっとしたら生まれて本当に初めてかも・・・

自立(自律も)する・・・ことの本当の意味も、まだ感覚的にですが、体験を持って分かってきたような気がします。

その方に一言こう言われましたけれど・・・

「自分のために来たでしょう(笑)」

はい・・・。(;^_^A アセアセ…


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