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Tuesday, 18 August 2009

距離のとりかた

本当に順不同で思いだした順にメモです(笑)。

日本倫理思想史を専門にしている友人と、かなりまとまった時間語り合った。

直接の理由は、彼女と共同研究をしよう、という話なのだが、実にさまざまなことを語り合った。

二人で語り合っているうちに、彼女がなぜ「倫理を選んだか」という話に及んだ。

思えば彼女と知り合って、しばらく経つのに、彼女からこの話を聞いたのは初めてだと思う。

私の中には、つい最近もふたたび浮上してきている「なぜ自分は生まれてきたか」「自分は何のために生まれてきたか」という問いがあるのだが、彼女の中には「自分はなぜ人(ヒト)に生まれてきたか」という問いが、気づいた時にはもうあったのだと言う。

そんな彼女が持つ視点は広く、深く、彼女との対話の中で、いつも私は大きくさせてもらって帰ってくる感じがする。

メモをしておきたいことはいくつもあるのだが、そのうちの一つ、興味深かったこと。

私はその他の同業と比較して、事例との距離のもちかたが異なるのだと言う。

他の同業の話を聴いていると、最後まで自分が携わって、「こうしたら、こう良くなりました」という報告が多いように感じるのに対して、私は、「こうなったらいい・・・」と願いながら、事例を対象化し、距離をとっているのだと言う。

あるところから先は相手に任せ、私は祈っている・・・そういうスタンスをとっているのだそうだ。

彼女の口から「祈っている」という言葉が出た瞬間、私は涙が出そうになった。

どんな涙なのかはわからないけれど、自分の心の奥深いところに響いてくる、そして私という人間やその生い立ちまでをも、気づいている、知っている・・・そんな気持ちにすらなるひとことだったのかもしれない。

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Saturday, 21 March 2009

興味深かったこと

Mokurens

久しぶりに専門のワークショップに参加した。

内容はかねてから興味を抱き続けてきたアートセラピー。

ワークショップの内容についてはここには載せないことにするが、体験中心のワークショップだったため、私もまた”体験すること”に徹した。

好きなことを取り組んでいるにもかかわらず、とにかく時間を必要とする私。

あらためて、私は極度ののんびり屋というか、決して冗談ではなく、周囲の人々と時間の流れが異なるのだなぁ・・・と自覚させられた。

「浮いているのではないか」という恐れをずっと、本当にずっと抱いてきたのだと思う。

しかし、今回の体験の中で、

「こんな自分でもO.K.」

「こんな自分でも受け入れられている」

「これでもいい」

「これでいい」

「”浮いている”なんていう心配はいらない」

という言葉が自然に浮かんできた。

また、「型にはまっている自分」「枠に当てはめている自分」にも強烈に気づかされた。

「誰も”枠に当てはまりなさい”なんて言っていないじゃないねぇ・・・」

「もっと好きにしていいんだよ~」

こんな言葉もやはり自然に出てきて、思わず自分で笑ってしまった。

なかなか興味深い体験だった。

Jinchoges

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Friday, 09 May 2008

日記風メモ

時には日記風メモで。

このGWは、随分と充実した時間を過ごした。
その殆どは子供や家族に関することなのだが、
一つ、私自身のこれからに関する大きな収穫を得た。
叔父から大きなアイデアをもらったことで、
自分の専門に、一つ大きなものが加わったのである。

これまでやってきたものとは、全く毛色の異なる領域で、
まさに学部生になった新鮮さを味わっている。

善は急げと、その日の夜から、ネット検索を駆使し、
入門書やら何やらを6冊購入。
(古書も含め注文し、到着を待っているものがさらにある)
子供が眠るたびに、貪るように読んでいる。

新しい領域をゼロから取り組み始めたことで、
これまで、脳の同じ部分ばかりを使っていたんだな、という感覚に気づく。
(あくまでも、私の”感覚”であるが)
今まで使ってきたようで、全く使っていない部分があり、
柔らかいつもりでいて、実は凝り固まっていたんだな~。
頭の体操や、今まで使っていなかった感性のトレーニングにもなって、
非常に楽しい。

おそらくこの体験は、今まで携わってきた領域に関しても
新しい視点や新鮮な風をきっと吹き込んでくれると信じている。
(既にもう”発見”があった)

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Tuesday, 08 April 2008

メモ

S

子育ては心理臨床のトレーニングになる

泣き声
声の調子
表情や目の光り
肌の色や張り、触った感触
などで
子どもの気持ちや体調が
わかるようになる

心理臨床家が、相手の気持ちや調子を
相手が全てを言葉にしなくても(またはできなくても)
推し量る練習になる

自分の都合、感情、気まぐれに、自分自身が振り回されることなく
とにかく子どもの要求に適切なタイミングで応え、
たとえ自分がどんなに疲れていたとしても、
常に気持ちが安定して、笑顔で、温かく接することのできる
そういう態度、在り方を身につけざるを得ない。

心理臨床家に必要とされる
安定した自分でいられるようになる、
まさにそのトレーニングになる。
心理臨床家は、クライエントと会っている時間に限定されるが
子育てをしている母親は、24時間、この姿勢を必要とするから
心理臨床家よりももっと、自分を律することを
求められている。

また、心理臨床家は、これらのトレーニングに”何年も”かける
ことができるが、
子育て中の母親は、そんな悠長なことは言っていられない。
非常に短期間で身につける必要があるのだ。

S_2

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Wednesday, 02 April 2008

神田橋のコトバ

S

「女性の心理臨床家が、出産と子育てのためにしばらく実務やトレーニングから離れることがあります。数年ごに復帰したときに見ていると、彼女たちはほぼ例外なく、素晴らしいセンスを身につけて戻ってきています。中断なく実務やトレーニングを続けて励んでいた仲間よりも進歩していることさえ多いのです。なんとも不公平だと思うことです。しかしそれは当然なのです。若い母は育児の日々の中で、最高の実務とトレーニングを体験するからです」。神田橋條治『初心者の手引き』花クリニック pp.107

「子育てをしている人はね、それだけトレーニングのチャンスを失ったかと見えるけれど、じつはそうじゃなくて、復帰してみるとそのあいだ勉強していた人よりも先に行ってる。というのは、やはり命とか、変化とか、成長とかいうことについて、フォーカシング的な意味で何かが掴めているんだよね。何かがわかった、それは言語以前のものだから説明はできない。だけど、何かを見て、あれは違うということはよくわかるわけ」。神田橋條治・滝口俊子『不確かさの中を』pp.22

神田橋の言葉は、平易な表現で語られているから、一見、すぐにわかったような錯覚に陥る。だが、少しすると必ず、「一体どういうことを指すのだろうか・・・」とわからなくなる。その意味を本当に理解するには、ずいぶんと時間を要する。

神田橋本人もそれをねらって書き、語っている、とやはり何かの著書で言っていた覚えがある。私は、それが面白くて、神田橋の著書や語りが大好きである。脳や感覚、感性をトレーニングされているようだ。

上記の引用部分を大切に抱え始めたのは昨年の夏頃だったと思うが(この本そのものは、もう何年も前から繰り返し読んでいるもので、綺麗な装丁の本なのに、すっかりぼろぼろになってしまった)具体的にどういうことを指すのか、ようやく今頃になって、身体感覚で(神田橋の言う”フォーカシング的に”)わかってきたような気がする。数日前に、「こういうことか!」と気づいたことをノートに殴り書きをした。
これを清書したら、少しずつここに載せていきたいと思う。本当に少しずつだけれども

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Friday, 27 July 2007

LD考

S


皆さんはLD(学習障害)というものをご存じでしょうか。

私自身は、臨床心理学系の大学院の受験勉強を始めたときにそういう状態像があることを知りましたが、どんなものなのかを理解したのは、大学院に入学してから、いえ、自分が実際に臨床の仕事に携わってからのような気がします。

LD(学習障害)とは、「基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を示すものである」(文部省 1999 の定義)とされているものです。

簡単に言い換えれば、私の解釈によれば、能力に極端な偏りが見られ、学習能力の特徴だけでなく、しばしば、独特な話し方、とんちんかんな受け取り方、突拍子もない発想、落ち着きのなさなどが見られることが多い状態のことを指します。

今日、職場で、1,2年生対象に業者の「基礎学力試験(国・数・英の3教科)」の試験監督をやる、という仕事がありました。

試験監督ほど忍耐を強いられる仕事はなく(本日は1学年分×2クールで行ったため、ほぼ3時間の間、じっとしなければいけなかった。しかも午前中は自分の定期試験の監督)、仕方がないので、問題用紙を眺めて頭の中で解答を行う、ということをして過ごしていました。

・・・で、ここで心から納得したのです。「あぁ、私のような者をLD」と言うのだ、と。

国語と英語の問題は、まぁまぁ出来たかと思います(自分比)。

問題は「数学」! 私がかろうじてできるのは単純な計算問題(紙に計算結果を残せる場合。
知能検査でよくあるような暗算が要求される場合は、2桁の足し算がもう怪しくなる)と、同位角や円周角や面積・体積の問題のみ。たとえば、□□×□=539 この□に入る数字を答えよ、とか、文章題から式を立てる問題などは、大問まるまるダメ(他にも問題があったけれど、ちっとも理解できなかったので記憶にすらない・・・)。

国語と英語の点数に対し、このテストの数学の私の得点は、国・英の4分の1も取れるかどうか・・・という結果になるかと思われます(推定採点による)。

思い起こせば、高校時代に、自信満々で答えた数学の試験で赤点とって、自分の能力に対して反対の方向に非常に驚いたことがありましたし、もっと昔で言えば、小学生のとき、分数の割り算で「どうしてひっくり返してかけ算するの?」と悩み抜いたこともありました。

大学院時代に、LDの第一人者が私の所属していた講座にいらしたのですが、その先生に、私、お墨付きをいただいているのですよね。何の?ってもちろんLDの。

そうは言っても、自分で自分のことを、まるで他人を診断するときのように、えらく納得しながら「これをLDというのだ」と思ったのは、今日が初めての体験でした(身体感覚で理解した感じ)。

アインシュタイン、エジソン、ガウディ、トム・クルーズ、黒柳徹子さん、最近で言えば市川拓司さんなどが、LDと言われていて、LDの特徴を持つ人間には、目標にしたい、あこがれの存在となっています。

ただ、今から困っているのは、この基礎学力試験について、秋学期始めの2年生対象のゼミにて、解説をしなければいけないのです。数学に関しては私は無理です! 「嫌だ」とか「やる気がない」とかではなく、「(どんなに努力をしても)出来ない」のです! 
教員にもLDがいることを、広く知ってもらえたらいいな〜というのが、ささやかな望みです。


S_3


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Sunday, 03 September 2006

身体との対話

Sinjukuyuhi


新宿の夕日。
今思えば素敵な3日間になることを暗示していたのかもしれない。

先週3日間、国際学会に行ってきました。
通勤時間に都内へ通うのは久しぶりでした。

専門に関する学びを深める絶好の機会。

今回は、今の私自身の流れのために用意されたようなプログラムでした。

たくさんのワークショップが催されている中、私が今回選んだのは、東洋(中国、インド)の伝統的な身体技法と身体的アプローチ(日本)。

この3日間で、すばらしい人にも出会えました。

そのうちの一人とのこと。

身体を扱うワークショップだったので、二人組を組んでお互いの身体を使って練習するのですが、私の身体を触るなり、「うわー!どうしたの?」の第一声。

ばりばりだったそうです。
自分では昔に比べればずいぶんほぐれたつもりだったのに、てんでダメだそうで。。。

どうも私は自分の身体にとんでもなく鈍感なんだそうです。
そしてずっと自分の身体をかわいがってこなかった。

「オーラが死んでるよ」とも言われました。

それは本当。

私の身体を、ワークショップが終わった時間も使って、丁寧にゆっくりとほぐしてくれました。

温かかった・・・。

「そんなに怖がらなくていいよ」

何度も言われました。

「そんなに自分の中に入らなくていいよ。ぼーっと頭をからっぽにして」

この一言が私をとても楽にしてくれました。

ワークショップの先生の、

「自分の身体に任せる」

と言う言葉も、今回私の中にふっと飛び込んできました。

私は、こういう風に人に身体をほぐしてもらうとき、「人に任せよう」としていて、そしてそれはとても怖いことなので、逆に身体が固まってしまい、いくらほぐしてもほぐしている側から固くなっていってしまうことを繰り返していました。

それをどうやったらそうならずに済むのか・・・

私はずっと分からなかったのだけれど、ようやく分かったような気がします。
「相手に任せる」のではなく、「自分の身体に任せる」のだと。

そしたら、とても不思議な体験をしました。

いろいろ考えが巡ることがなくなり、頭がぼんやりしてきて、真っ白というよりは透明な感じになりました。
それはとても心地いい体験でした。

すると、少しだけ、世の中が怖くなくなりました。

もっと私は世の中で安心していていいんだ・・・
そう思えたら、ものすごく楽になって、自然に笑顔になりました。
こんなに楽な気持ちで外にいるのはひょっとしたら生まれて本当に初めてかも・・・

自立(自律も)する・・・ことの本当の意味も、まだ感覚的にですが、体験を持って分かってきたような気がします。

その方に一言こう言われましたけれど・・・

「自分のために来たでしょう(笑)」

はい・・・。(;^_^A アセアセ…


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Wednesday, 24 May 2006

覚え書き

否定的な気分でいっぱいのときに、例え、自分にまったく関係ないものだったとしても、その時に目にする否定的なメッセージは、まるっきり自分自身に当てはめてしまうものなんですね。

ということを、今回の絶不調の間に経験し、もう自分は再起不能かと思うくらい、最悪の考え(ようは自分を究極的に攻撃する言葉)が頭をぐるぐるめぐって苦しみました。

そういう時に限って、人は全然そんなつもりではないのに、本人にとっては「これでもか~」と追い打ちをかけるように変にタイミングのあってしまう出来事が重なるし。

でも、それらの経験は、今の自分を徹底的に見つめるためのいい機会になりました。

今の私は、「何もしていない人」なのか。
今の私は、「大したことない人」「つまらない人」なのか。

そして、では、今の私は、いったい何をしているのか。

とある否定的なメッセージに打ちのめされそうになりながらも
自分を見つめ考え続けました(踏ん張りました。だって、それが私の専門ですから)。

元気を取り戻しかけてるかな・・・そんなときに、本来の元気な私を完全に取り戻させてくれた出来事が、今週になってありました。

とても特徴のある学生とのやりとりだったのですが、その学生が、おそらく彼と私が出会ってからは初めて、彼が私に自分のプライベートな話を、ずいぶん長い間話してくれた時間でした。

その時間を過ごし終えたら、気づいたらとても柔らかい笑顔になっている自分に気づきました。

そして、「私はこの仕事(臨床)が、誰が何と言おうと好きなんだな~」と何の無理もなく、本当に自然に思うことができ、それがすごく嬉しく、そこで一気に自分は元気を取り戻したような気がします。

確かに、客観的に見ると、私は「何もしてない人」なのかもしれません。
そう言われて怒ったり、くやしがっても仕方ないことですよね。
今の私がしている作業は、外からは見えないですから。

ここ1年くらい、自分でもよく飽きずに続けているな・・・って思うことを続けています。

そして、そこで見つけ出されたことは着実に積み上がってきているな・・・と実感します。
先述の彼と過ごした時間の中でもそれは実感することができました。

しかし、この作業には膨大な時間がこれからもかかると思います。
これをやっている最中は、形には表れません。

だから、今しばらく、やっぱり人には「何もしていない人」に映り続けるのかもしれませんが、私が何故、こんな作業をすることにしたのか、それを決意したときのことを、自分を見失いそうになったり、そのことを知らない人にあれこれ言われたときこそ、落ち着いて思い出し、目先のことに振り回されないでいたいと思います。

抽象的な表現でごめんなさい。
読んでいても分からないですよね。

今回の記事は、自分にとっての覚え書きでした。

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Monday, 26 December 2005

「聴く」ということ

先週の木曜日、今後、私のスーパーバイズを引き受けてくれるN先生と、いつもよりはゆっくり話す機会があった。

そこで私はとある質問をしたのだが(実際のセッションを研修で見せてもらい、その一場面が私にはすごく気になっていた)、それに対してN先生はこう言った。「えっ??そんなこと(クライエントさんが)言ってたっけ」。私「確かこんなことを・・・」。先生「へぇ、そんなこと聞いたの始めて。面白いところ聞いてるね」。私は「へっ???」と思った。ほめ言葉とはとてもじゃないけれど受け取れなかった。
で、しばし質問を重ねているうちに、自分とN先生の違いは、もしかしてこんなことか・・・と思った。

先生は、クライエントさん(先生は「お客さん」と呼ぶという)の話を「聞いてない」と言う。私は、その後的確な介入をしている先生を見て、「聞いてない(もしくは聴いてない)」はずはない、と考え続けた。で、たぶんこんなことではないか・・・と今の時点では思っている。
おそらく、先生はクライエントさんが、話しているとき、その声、口調、速さ、表情、雰囲気、そしてそこに流れる気持ちなどを「聴いて」いるのだと思う。一方、私は何を聴いているかというと、「話している内容」。細部にこだわりすぎる自分には気づいていたのだが、なるほど!と思った。

私の理解を表現すれば、N先生は「響きを聴いている」のだと思った。

早速、私も練習している。
こうすると、自分の「信念」と相手の「信念」が直接ぶつかりあうこともないので、自分自身も楽に「聴く」ことができる。

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Saturday, 20 August 2005

学会

私のメインになる学会に行ってきました。

学会に行って思ったこと。

世代交代を実感するというか、私の年代のずっと私の学会仲間(友達)でいてくれた人たちは、来ている人がゼロって言って良いほど、学会で見かけなくなりました。臨床(現場)の仕事に就いている人たちは、それでもちらほら会うのですが、研究(大学)の仕事に就いた人たちは、ほんと見かけませんでした。・・・お友達がいなくて、何だかものすごく寂しくて懇親会の席でも一人でぽや~んとしてしまいました。(/_;。) ウッウッウッ

私の友達たち(今から7、8年前学会で活躍)、大学では専任講師から助教授になっていくクラス。私の大学もそうですが、とんでもなく本務が忙しくなりますよね。外からの仕事の依頼も増えますし。だから、学会が開かれる時期(平日)はたいてい、仕事で抜けられなくなるんですよね。または当日はどうにかなっても前後が大変。
きっとみんな忙しくしているんだろうな・・・って思い、寂しさの反面、みんな似てるのかな・・・とちょっと励みにもなりました。ほんとは会って、今の状況などをいろいろ話せたらいいんだけどね。年々年賀状だけのつきあいになっていきます。

でも、本当は研究、やりたいですよね。私も含めて。

そろそろ科学研究費をまたやってみようかなと思っているみやび姫。でした。

今回はちょっと本領発揮。

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Saturday, 09 July 2005

ダブルロール

ここ数日もやもやしていて、一昨日は考えすぎて眠れませんでした。

何を悩んでいるかというと、臨床家(カウンセラー)と教員という2種類の役割を抱えていることの、ダブルロールの悩み。

悩みを抱えた学生に会うとき、私は「臨床心理学を専門とした教員」であります。
でも、大学の仕事に就く前、長らく現場で働いていたので、「臨床家」というアイデンティティもあります。
経験の長さで言うと、「臨床家」の方が長くなります。

相談を受けたからには、方針が必要。
その方針を立てるときに、困り果てるのです。
「教員」としてよかれと思うことと、「臨床家」としてよかれと思うこと、方針のベクトルがまったく反対の方向に行ってしまうことすらあります。
私の場合、それにプラス「悩み、苦しみ、病気を抱える一人の人間」の視点も加わってしまうので、さらに複雑です。

そんなところで、考え込んでいます。

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Sunday, 22 May 2005

四分の一で割る

「おもひでぽろぽろ」を今日観た。

そこで主人公のタエコが悩むところがある。
分数の割り算だ。

2/3 ÷ 1/4 

タエ子は分数の割り算ができない。
姉にどうして自分はこういう答えを出したかを、リンゴの絵を用いて説明する。

タエ子の説明は、4で割った答えになっているのではないか・・・と私も思った。

じゃあ、とLD(学習障害)で、まったく算数ができない私もできるか図を書いて考えてみた。

が、リンゴの絵で考えてみたら、1/4で割るって、いったいどういう現象になるんだ、1/4で割るのを図で表現するとどうなるのか・・・・

考え始めたら分からなくなった。

しばらーく考えて、1/4で割るときに起こる現象が少し分かってきたかもしれない・・・んだけど。自信ない。

本当は絵で表現したいのだが、ここでは絵で表現できないので、一応こう説明してみる。

2/3 ÷ 4 が 2/3のリンゴを4個になるようにしなさい、という命令文とするならば
2/3 ÷ 1/4 は 2/3のリンゴが1/4個になるようにしなさいという命令だということ。

すなわち、全体が8/3あれば、もとの2/3のリンゴは、8/3に対して1/4になる。

このとき、2/3に対して8/3は現象として4倍になっている。
だから、1/4で割ると言うことは、4/1をかけるのと一緒の答えになる。

私はこう考えましたけどぉ・・・

何か、私は確かめ算を理解したらしいのだが・・・。

ちなみに私は数式は全く理解できないLDです。

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